だー眠い!

 とりあえずここまで書いてみました。
 途中から話がおかしくなって、最後は投げやりになってきたので現地にて書き直すことにします。
 明日も早いのでこれにておやすみなさいませ。

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  私の仕事は「化学工場」で化学薬品を作ることである。
 線形が予測出来る事象だとするとし、その他が非線形非線形領域はカオス・複雑系だとすると非常に困ります。
 もし機械物、たとえば「携帯電話」などは従来各組み立て行程が「分散」して行われていたが、最近の研究で1人の組み立て要員が各部品の組み立てをすべて行った方が、より早く組み立てられる為、三洋などは流れ作業のラインをすべて取り去り、各熟練工員達により「1人→1台」方式に転換したという話を聞きました。
 この例でしたら「各個人の組み立て能力」や「その日の組み立て工員の身体状況や精神状況」「職場環境の人間関係」などなど、様々な要因が重なり合ったり、また絡まったりして1個の製品の質という物に細かなばらつきが発生できると理解できます。
 しかし、化学薬品の場合「出来てはいけない物質の量」や「出来なければならない物質の量」はある程度決められていますが、講義の中で見せて頂いたシュミレーションの様なローレンツカオスの時間が進むにつれて180度違った方向を示すようなことは許されません。
 ましてや「医薬品」の場合「できてなければいけないもの」の量は厳密に決められ、出来てはいけないものは極端に少ない物を要求されます。
 もちろん先に例を挙げた「携帯電話」でも使えない物ができあがっては不良品ということで廃棄になりますし、組み立てた工員はマイナス評価になってしまうでしょう。
 私は今まで「良い物=良い評価」「悪い物=悪い評価」と決められる仕事をしてきましたので、「良い物」も「悪い物」もそれぞれ評価しなければならないということは少々とまどいを覚えました。
 人間という物は「良い人間」「悪い人間」という評価では捉えきれないところがところがあります。
 しかし、「良い」「悪い」と評価する「基準」とは何でしょう?
 レジュメの中で「タオの印」が出てきましたが、「列子 周穆王編 十」に「秦の逢氏の息子がおかしくなった」話が出てくるのを思い出しました。
 その息子は「楽しい歌を聞けば悲しくなって泣く。白いものを見れば黒という。
香をかぐと臭いという。甘い物を食べるとにがいという。悪いことをしながら正しいことをしたという。なんでもあべこべ、ものごとの判断が逆になってしまった。」
 その父親が魯の医者に直して貰おうとする途中に「老子」に出会い「一家之迷、不足傾一郷。一郷之迷、不足傾一国。一国之迷、不足傾天下。天下尽迷、孰傾之哉。向使天下之人、其心尽如汝子、汝則反迷矣。」と言われました。
 もし自分以外が「息子」と同じように自分以外の感覚になれば、今度は「自分」が「病気」とされてしまう。
 何を基準に置くかによって「良い」「悪い」が決まるように「良い」「悪い」とはその判断する人間が作り出した分別によるところが大きいでしょう。
 私は「線形と非線型理論とカオス・複雑系理論」と名付けられていますが、その体系は「老子」「荘子」「列子」の思想にかなり近いと思うのですが、「理論」と名付けられている以上、そして現代は「老荘思想」が成立してから2000年以上を経ていますので、より発展具体化した物なのでしょうか?
 インターネットで「線形と非線型理論」「カオス・複雑系理論」と検索をすると「自然現象」「ゆらぎ」などを数値化しようとする理論が数多く出てきます。
 アインシュタインが「biggest blunder」と叫んだ「ラムダ項」は静的宇宙論の証明のために導入されたが、ハッブルの膨張宇宙論が主流になるにつれ、アインシュタインが撤回するにおよび、その存在は顧みられることは無くなった。
しかし、最近の研究では導入しないと逆にインフレーション理論が証明できなくなるのでは?と言われている。
 ハッブル定数という「線形」により素直に膨張していった宇宙論は、時が進み、観測技術が発達するにつれ「非線形」になっていったのでしょうか?
 そのとき無駄だと思った物、間違いであった物が時が経つにつれ「正解」であり、誤りではなかったと分かってくることがある。
 医療福祉の現場において「マニュアル」通りでは無く「カオス・複雑系」という人間1人1人の「個」という存在を考慮し、1人1人違ったケアをしなければいけないという。
 何もしなければ前に進まないことは理解出来るが、ケアする老人に限って考えて見ると「何十年」と一緒に連れ添った「妻」や「夫」、もしくは「子供」でさえ、ケアしようとする人間に手を焼く場合が多々ある現状で、はたして他人である「介護者」がどこまで「個」という存在を考慮しケアすることができるであろうか?
 1人のケアする人間、1人の肉親者、1人の理論屋、1人の経験豊富なケアする人間、1人の・・・
 数多くの人間が1人をケアするということは現実的に無理ではあるように考えられるが、考えるのが無理だと分かっていても、集団的ケアが崩壊しているということを聞くと、何か先へ進めなくてはいけないのだろう。
 それを解決するのは「線形・非線型理論とカオス・複雑系理論」によって医療・看護・介護・福祉を統合するということだが、ケアする人間がケアしようとする人間と同化するということだろうか?
 臨済宗の禅師であった山本玄峰老師の「無門関提唱」の中に京都大学の学長の奥さんで座禅して悟った後、自分は漢文が読めないが夫が読んでいる漢文の書の中に出てくる人物の気持ちが分かるようになった」という話が出ている。
 これからの「ケア」する人間はここまでの境地に達しないといけないのだろうか?
 もちろんここまで達した人間ばかりだとすごいこととは思いますが。

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